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「資本主義と自由」読書会

「資本主義と自由」読書会

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

ミルトン・フリードマンの「資本主義と自由」の読書会を、大学3年生5人(法学部3人、教養学部1人、私)で行った。

序章・第一章・第二章を主な範疇とし、レジュメを読みながら各々が興味を持った事柄について話し、それについて意見交換した。

忘れないうちに、そこで得られた知見をまとめておこうと思う。以下に述べることは、読書会における議論からの借用がほとんどである。この場を借りて諸氏に謝辞を述べたい。

「資本主義と自由」への評価

この本は厳密に論証される部分と感覚で書かれている部分が混在しており、特にもともとフリードマンは政策論が専門であるから、第一章のような政治論は抽象的で、その部分における論理の飛躍や不整合はそれなりに許容すべきものだろう。しかしながらその政策論の各論という面でも、必ずしもそれらをすべて首肯できるわけではない。

今この本を読みなおす意義とは何か、という問題提起がたびたびなされたが、自由主義者の思考回路を理解するには適しているだろうが、あくまでここで述べられる政策論は理想に過ぎない。私はこの本はもはや、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や「共産党宣言」といった古典的名著と同様の扱いをすればよいのではないかと思う。

また他に、この本が前提としている完全自由競争が真に実現されうるのかという点は疑問視されており、情報の非対称性、既得権益云々によってそれが実現できないのであれば、そもそもこれらの議論が成り立たないのではないかという批判があった。

リバタリアンの盲点

自由主義がすべての国家で適応できるかというと、最貧国がいきなり関税撤廃したとして成長できるかというと、そうではない。幼稚産業育成論は世界中の多くの国で実践され、ある程度成果をあげてきた。

アメリカは確かに自由の国だが、独立当時のアメリカがすでに「持てる国」であったことが自由の基盤として大きな役割を果たしていたに違いない。

一方でヨーロッパ諸国ではカルテルを許す資本主義体制であったことは、自由主義の側面には反しているかもしれないが紛れもなく資本主義の一形態であり、持たざる国ヨーロッパの生き延びる手段であったのかもしれない。

新自由主義は成熟した先進国においてのみ可能なのであって、社会の発達は開発独裁によって十分に産業が育ってから、漸進的な自由化という過程を経てなされるのである。

今後の展望

興味深かったのは、「日本は最も成功した社会主義国である」という言説で知られるように日本の高度経済成長は政府主導の統制的な経済支配によってなされたということが言われていたが、最近の研究では実はそうでもなかったことが明らかになっているということである。

城山三郎官僚たちの夏」で描かれたような、経産官僚が積極的に支援して力を注いだ産業(たとえば鉄鋼業)が必ずしも日本の基幹産業となっているわけではなく、自動車産業といった自由競争に委ねられた産業が日本を支えていることがその証左である。

こういった視点を提供してくれるのは、ローゼンブルースの『日本政治の大転換: 「鉄とコメの同盟」から日本型自由主義へ』だそうだ。これも機会があれば読んでみたい。