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若者の生態を青春小説の系譜から探る

若者 は常に、良くも悪くも時代を象徴する存在であった。太陽族竹の子族、ヒッピー、アッシー君……といった時代を象徴する文化や言葉には、背後に若者の大きな力があった。しかしながら、一億総中流と呼ばれた日本人が多様化をする中で、人口に対する若者の占める割合が低下するだけでなく若者間での共通性が失われてきたのが現代の若者である。そう、もはや彼らを若者としてひとくくりに扱えるほどの共通性をもつ集団が存在しているわけではないのだ。

古市憲寿(2011)「絶望の国の幸福な若者たち」は、まさにそういった現代の若者をデータとインタビューの両面から切り取る資料集として非常に興味深い。

一方でかつての若者、特に学生はいったいどのように生きていたのだろうか。

しばしば語られることであるが、「大きな物語」の瓦解がもたらした影響は大きい。現代の若者は共通の文脈を失っている。かつてはほとんどの家庭が視ていたテレビ、そこで流される野球中継といったものは少なからず話題を生み出す役割を果たしていたはずだ。しかし今はそういった共通の中心軸となる話題もなく、個々人はより細分化された人間関係の中で過ごすようになっている。そういった現代の視点から過去を見渡したとき、いったいどのような変化がみられるのだろうか。

ここでは私が独断と偏見で選んだ学生を主人公とする小説を追いながら、それぞれの時代の学生事情を詳らかにしたい。また大澤真幸(2008)「不可能性の時代」に倣った時代区分を採用した。時代の先端をゆく若者であるからこそ、時代の空気に大きく影響を受けた生き方をしているのではないかと思う。昔に読んだ本ばかりなので記憶が曖昧であるし、そこまで深く掘り下げて考えたわけでもないし、かなり適当なことを言っている部分もあるが、それはそれとして最後まで読んでいただけたら幸いである。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

ポスト学生紛争(理想の時代~虚構の時代Ⅰ)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

ぼくらの七日間戦争 (角川文庫)

ぼくらの七日間戦争 (角川文庫)

この時代の有名な本は、学生運動という一時代が終わった虚脱感としらけの中で発生してきたといってもよい。ちょうど学生紛争以後に大学に入学した世代を「しらけ世代」と呼ぶように。

学生運動は、腐敗した大学上層部の粉砕を目論んだものが始まりではあったが、それが労使対立や新左翼運動と結びつき大規模なムーブメントとなった。しかしそれは過激化を招き、一般大衆の離反と先鋭化したメンバーによる浅間山荘事件を引き起こした。このように日本の革命はなしえなかったものの、而して大学解体じたいは成功した。大学全入時代の到来により大学生は量産されるようになったが、一方で彼らの全員が高い学習意欲を持っていたわけではない。その帰結として大学は以後、レジャーランド化の一途をたどるようになったのだ。

その中で、庄司薫(1969)「赤頭巾ちゃん気をつけて」は学生運動のあおりを受けて東大入試がなくなった年の浪人生が、人間との関わりを通して学問や人生について思索をめぐらし、その中で主人公が成長を遂げる成長譚である。

学生運動というある意味で悩める若者を吸収して有り余るエネルギーを議論と破壊に向けたはけ口がなくなったことで、若者は自律的に悩むことが求められるようになった混乱期の若者のあり方を等身大に描いているように感じる。そしてその悩みが若者で共有されたからこそ、多くの若者が当時この本を手に取り、芥川賞を受賞したのではないかと思う。身近なちっぽけなことからもっと規模の大きなことまでひっくるめて若者は悩んでいたのではないか、と感じさせる。少なくとも、人間関係や目先の就職だけに悩みが収斂していたとは思えない。

宗田理(1985)「ぼくらの七日間戦争」も同様のポスト学生運動期を描いた作品であったが、こちらはどちらかというと学生運動に対する回顧的、懐古的心情が強く、全共闘の亡霊を中学生の悪戯に仮託しているところが逆に、若い瑞々しい感性からの乖離を感じさせる。もちろん、読み物としては面白く、中学生が知恵を駆使して大人達の裏をかいていく姿はまさに痛快である。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

一方で全く学生運動に関心を抱かない層もある。それが村上春樹(1987)「ノルウェイの森」だ。ここでの主人公(ワタナベ君)は学生運動を横目に見ながら、而して学生運動や学問というものにはまったく興味を持たず恋愛ゲームに興じ、過去の因縁にとらわれている。

村上春樹の場合、多くの作品で過去が重要なモチーフになっている。過去に囚われた主人公、過去の束縛から逃れられないヒロインなど、そういった登場人物を描く限り、将来を考えるためにはまず過去を解決しなければならないし、それが主題となってしまうのだから、彼らから前向きな悩みを見いだすのは難しいのかも知れない。だが一方で、過去の悩みはその時々の世相に左右される現在や将来の生活に比べて普遍的/時代に囚われないことが多く、それが彼の作品が長く人々を楽しませていることにつながっているのだろう。

バブル期(虚構の時代Ⅱ)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

学生運動というある意味での理想を追い求める運動が破綻し、人々が虚構に溺れるようになったのが1970年代以後の「虚構の時代」とするならば、その頂点がバブル期であろう。 その中で田中康夫(1980)「なんとなく、クリスタル」はブランドという虚構に溺れながら、自律的な生活を送る恋人どうしの生活を端的な文章で表現する、バブル期を象徴する文学なのではないかと思う。

膨大な脚注は、それをシニカルな視点からメタ的に捉えている。そこではブランドが過剰なまでに記述される一方で、大学名については適度にぼやかされているところが、かえって学歴としての大学名が飾り立てたブランドよりも価値を有していると考えていることが暗黙裡に示唆される。彼らの生活の主体はもはや大学ではなく仕事であるにも関わらず、大学名にはやはり価値があるのだ。

田中康夫の小説は、どのような人生を送るかや将来を悩むということよりも「なんとなく」や「気分」で今を生きることを当然のようにとらえている。しかしそれは残念ながらバブル崩壊以後の現代には通用しない観念となってしまった。これが村上春樹と好対照を為している。彼らはどちらも若者を主人公に据えた小説を書き、時代の寵児となったわけだが、村上春樹の作品群はそれ以降の時代でも受容され、毎年ノーベル文学賞を取るのではないかと騒がれているが、作品自体が特定の年代/時代を扱うものが多いといえども、翻訳文体ともいわれるその文体じたいは時代に依存していないために、原典は日本語そのものが変革するまで読み続けられるだろう。一方、とうの田中康夫はそれ以降、批評家、そして政治家へ転向し、なんクリ自体はそれが古典小説と同様の扱いを受けるようになったことがそのことの何よりの証左だろう。

だがもう一作バブル期には面白い作品がある。それが杉元伶一(1991)の「就職戦線異状なし」だ。これは織田裕二主演の映画の方でしか観たことがないのだが、空前の(そして恐らく絶後の)売り手市場であったバブル期であって、就活はできるだけ良い会社に入るレースゲームのように捉えられていた中で、就活をしていくうちに段々、「本当に自分のやりたいこと」を見いだしていくというストーリーである。その中の一節で、「なりたいものではなく、なれるものを探し始めたら大人だ」という登場人物の台詞がある。それは正鵠を射ている。だがやりたいことをやる、なりたいものになろうとするのは若者の特権でもあるはずだ。それこそ当時よりも更に就活のあり方が画一化され、インターネットの普及により容易に大量に企業にエントリーできるようになった現代は企業とのマッチングはますます難しいものになっている一方で、経団連指針により就活期間は短くなっているという厳しい現実だが、その中でどう就活していくかということに対して作品の持つメッセージは色褪せていないはずだ。

失われた20年(不可能性の時代)

大澤は1995年以降を「不可能性の時代」と呼んだ。この時代を「現実への逃避」という言葉で象徴したが、それは大澤の言葉を借りるならば「第三者の審級」の衰退と軌を一にしていたといえよう。世俗化による信仰の衰退に加え、ソ連崩壊による共産主義への幻滅が進み、日本ではバブル崩壊で成長神話も崩れた。それはつまり「大きな物語」の崩壊であった。それ以後人々は多様性の名のもとにお互いを許容し、尊重しあうことが求められた。

それと同時にセキュリティ化が進んだ。これの意味するところはジジェクの言うところのカフェインレス・コーヒーやノンアルコールビールのような無害な危険であり、主張なきデモであり、その究極系が美少女ゲームのような、恋愛や生身の身体性といった現実の面倒な手続きなしにセックスを体験することのできるバーチャル・リアリティである。科学の発展は、様々な危険から危険を取り除くことに成功した。しかしその手法はときに、現実と精神を仲立ちする中間媒体を設けることがしばしばあり、結果として久しく我々は、身体性を欠いたアンバランスな生活を送っている。

一方で変化する現実を受け入れられない人々が「大きな物語」を求めたが、その手法は極めて肉体的、身体的なものであった。その行き着く先がテロルや暴力であり、そういった破壊的な行為による原理への回帰を求めた。その帰結が9.11であり、その後の一連のテロとの戦いであり、例えば秋葉原連続通り魔事件もその発露ではないかと考えられる。

まさに現実が消毒されるのと対照的に失われた身体の感覚を取り戻さんとして暴力、自傷行為に走る人々が増えているのは、高度なセキュリティ化が生み出した矛盾といって差し支えないだろう。

将来が不安であるがゆえに若者は今が幸福だと考える。これは古市の見方だが、私は実際に今の日本の若者は「なんとなく」生きることはできず、そのかりそめの幸福を刹那的に享受するか、さもなくばその不安に押しつぶされながらひたすらにペシミスティックに(あるいは絶望して)生きるか、そのどちらかに収斂しているのではないかとみている。

参考ページ

なんとなく、クリスタル

http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080522/1211421607d.hatena.ne.jp