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宇野常寛「ゼロ年代の想像力」から想像する

ここでは、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読み、サブカルチャーを中心として年代ごとを表象する作品と人々の志向について考える。その後、10年代の作品について概観する。

1970年代〜1980年代

東浩紀動物化するポストモダン」によれば、この年代以降、経済成長の停滞によって、戦後も連綿と受け継がれていた戦中の総力戦体制が緩み、大きな物語を失うとともにポストモダン的なデータベース化が進んだとされているが、一方で伝統的な学問体系は依然としてツリー型を保っていたため、齟齬が生じているとしている。具体的には80年代は失われた大きな物語を求めて虚構を捏造し、そして90年代ではデータベース的消費が進んでいったと指摘している。

安保闘争の挫折や消費社会の定着により、終わりなき日常へ対する退屈さが増大したのがこの年代である。その消費社会の定着は、熊代亨「融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論」によれば新人類が牽引し、多くの人々はテレビを通して語られるその消費スタイルを受容することで形作られた。当時はまだテレビや新聞といったメディアの影響力が絶大であり、多くの大衆は多かれ少なかれ新人類の影響下にあり、それとは違って地縁的コミュニティに依拠していたヤンキー、また雑誌や即売会等を通してほそぼそと活動を続けていたオタクとの隔絶が大きい時代であったといえる。

1990年代

かつて大きな物語には代替となる存在があった。例えば宗教は世俗化によって科学にとって代わり、従って大学では神学よりも科学が学ばれるようになった。太平洋戦争の終戦も、帝国主義的史観・価値観からアメリカナイズされた消費主義へと権威が交代したに過ぎなかった。しかしバブル崩壊、冷戦終結によって本格的に大きな物語が失われた。この時代台頭してきたオウム真理教はまさに、その失われた大きな物語を麻原に仮託した存在であった。一方でアニメでは新世紀エヴァンゲリオンが大きな注目を集めたが、結局これはひきこもることでの解決、とどのつまり心理主義であった。

そして同時に現れたのがセカイ系という言葉で表象される、自分と彼女という関係性が世界の帰趨に直結している世界観は、世界の危機/この世の終わりと行為への承認の合成であった。愛を貫くことで自らが全肯定されることが、物語の中で半ば当然のように扱われていたのもこの時代である。

心理主義セカイ系も、どちらも自らの殻の中に閉じこもることでの解決を図っているが*1阪神・淡路大震災オウム真理教事件以後の1990年代特有の世紀末感やバブル崩壊後の先の見えない不況感の中で、その考え方が人々の共感を集めたといたら、その通りなのかもしれない。

2000年代

宇野によれば、2000年代ではサヴァイブ系の作品が隆盛を極めたといっても過言ではない。これは仮面ライダーFate S/N、 野ブタ。をプロデュースといった様々な作品でその手法は手を変え品を変え現れてきたが、これは決断主義の現れである。心理主義の反省として、我々は何らかの決断を下さなければならず、バトルロワイヤル的な空間に於いて人々は何らかの決断を迫られ、そこにドラマが生まれる。そのバトルロワイヤル的な空間は、まさに我々が参加を余儀なくされている空間でもある。

そういった00年代作品の集大成として魔法少女まどか☆マギカが2011年に登場したとき、それはまさに00年代を代表する要素を兼ね備えていたといっても過言でない。コミュニケーション不全による意思疎通の不可能性によるすれ違い、巴マミの死という形で容赦なく突きつけられる現実、そしてその現実に対して最終的に鹿目まどかは決断を下すこととなり、セカイは救済される。こうした枠組みは、00年代における決断主義をまさに象徴している。

この決断主義では、私が思うに「Aも良いけどBも良いよね」といった両論併記を曖昧なまま留めておくのではなく、より積極的に、批判を受けることを覚悟で「Bではなく、Aである」と言い切ることが求められているように感じる。そしてそれは価値観の多様化した時代に、大きな物語による裏付けを失ったがゆえに確固たる根拠なく宣言しなければならないがために、より一層勇気を持つ必要があるように感じる。そしてその決断主義的な意思決定が、例えば短期決戦の新卒一括採用な就活で常に求められるようになってきたといえるだろう。そういう意味では、自分が何者であるかを常に決断し続けなければならない時代であるとも言えるだろう。

2010年代

さて2010年代になると、事態は更に混沌としてきた。いわゆる難民系アニメはどれも男性キャラの不在と女性キャラによる箱庭的な世界を傍観者が眺めるスタイルの作品といえよう。物語レスな世界をむしろ積極的に肯定していく様相が伺えるが、私にはそれが、現実社会におけるコミュニケーションの代償としての濃密な、完成された空間がそれぞれ島宇宙的に世界中に散らばっているようなイメージに見える。

新海誠は2010年代を代表する映画監督の1人だが、特に秒速5センチメートルを観てみると、最後に第三話で、今迄連綿と続いてきたストーリーは断片的描写の集合に回収され、そして突如山崎まさよしone more time, one more chance のPVとなる。そしてその間には、主人公の空白を埋める説明もストーリーもない。彼の映画は物語というよりポエムであり、その独特な語り口に惹かれるところは非常に多いのだが、むしろそのストーリーがないことによって、東の言葉を借りるならばデータベースの要素として主人公の恋愛を分解することによって、自らの経験との何らかの共通項を見いだし、それが自分の心に刺さるようにできている。物語が抽象化されることによって主人公の恋愛は自分の恋愛に射影され、そして何らかの共感ができるようになるのだ。

一方で彼の描く小説は感情表現豊かで、映画では描かれないストーリーの補完がみられる。これは映画とは好対照であり、ある意味で小説と映画が対になることで作品世界を構築しているといえよう。しかしこのようにしてストーリーを付与された登場人物は、ともすれば平板で、二次創作を行う余地(シミュラークル)を失った存在に見えてしまうことも少なくない。

ところで、人々の消費志向も大きく変化してきている。若者のテレビ離れが叫ばれるようになり、インターネットを介した様々な趣味分野における小さなコミュニティに再編されているように感じる。そしてそのたくさんのコミュニティが島宇宙を形成しているというのが現状に対する一つの説明となりうるだろう。先述の熊代の議論を援用するが、この過程の中で従来のオタク/サブカル/ヤンキーといった境界が融解し、かつてのヤンキーは一部の田舎を除いて絶滅し、マイルドヤンキー的な価値観に取って代わった。それによって、ブランド物を消費することを是としていた新人類に憧れを抱いていた中流層は、長いデフレと所得減少によってブランドには拘っていられなくなり、そしてオタクもアニメ、マンガ文化が大衆に知れ渡ったことでライトオタクなるライト層を多く生み出すこととなった。そしてその三極のライト層の中間が重なり合った部分が、現在の general public の姿ではないだろうか。

彼らの消費形態は、ブランドの最先端を行く者、オタクの最先端を行く者が選んだモノ/作品を受容することで成り立っている。従って彼らは審美眼を磨くことをせず、ただインターネット上の評判などを頼りに観る作品を選んでいる。それゆえに、作品の本質的な面白さと作品の売上や注目度が必ずしも一致しないことが少なくない。もしそうだとするならば、本質的にはテレビを観て、そのテレビで描かれているものを無条件に受け入れていた時代の人々と大差ないのではなかろうか。

とはいえ、インターネットのおかげでそのチャネルは当時に比べていくぶんか選択肢が広く、そのために彼らは選択の自由を享受しているかのように錯覚してしまう。そしてそのことに自覚的になったとき我々は消費主義の無力さを悟り、大きな物語からの脱物語と呼応するかのように消費という軛から逃れる脱消費主義的無行動主義に走るのではないか。そしてその萌芽は、20代を中心とする若者の一部で既に見られ始めているのではないかと感じる。

1990年代以降、物語への回帰と脱物語が振り子のように揺れているように感じる。そして10年代は脱物語の年代であった。果たして我々が迎える20年代はどのような作品が展開されるのか、興味深い。

*1:実際にはそれで解決するのは本当にごく身近な問題だけで、世の中の問題は往々にして解決しない