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小説に登場する若者像を考える

はじめに

いつの時代も若者は、小説の主題となることもある中心的な存在であった。ここでは独断と偏見に基づいて小説をサンプリングして、その時代ごとに描かれている若者について探っていきたいと思う。

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戦前

現代は「格差社会」であると言われている。特に経済格差については、ミラノヴィッチによれば、世界的に、現代においてはエリート、すなわち医者や弁護士などの高学歴エリートが、株の配当や不動産所得などを同時に得ており、つまり労働所得が多い者が資本所得が多いという傾向がある。すなわち、資本所得が多い人々は、想像されるような資本家という階層、つまり労働せず、資本だけを持っているような人々というのが大宗を占めるのではなく、実際には所得の多いエリートが投資をすることで資産を形成している、という構図が見えてくるのだ。

特に日本でみられる傾向として、資本所得と労働所得のジニ係数の格差が、他国に比べより顕著であるという図が掲載されている。すなわち、労働所得の格差に比べて、資本所得の格差が大きいことを示唆している。その理由はいくつか考えられるが、一つには預金信仰の強い日本では、そもそも投資をする人が少ないがゆえに、資本所得の有無がそのまま格差に直結していて、これは投資リテラシーと関係している、というような状況があるというのは、雑な推論だろうか。

これは新自由主義的な資本主義(ミラノヴィッチの言葉を借りればリベラル能力資本主義)の帰結として生じているものであるが、社会資本等有形無形の資本は家庭環境によって継承されるという留保はありつつも、お金さえ稼げばその他のことは関係ないという時代になったという意味では、良くも悪くも平等であるとも言える。一方で華族制度が残っている戦前では、文字通り門地による格差というものが歴然と存在していた。

三島由紀夫の「豊饒の海」第一巻「春の雪」において、華族の子息である松枝は、貴族としての所与の生活がある一方で、そうであるがゆえに屈折した感情を持ってしまうに至っている。その発露が恋愛であり、多くの人間を傷つけてしまう結果にはなるが、松枝の友人であり「豊饒の海」ストーリーのキーマンとなる本多が、続編においてだんだん卑屈に、猥雑になっていくのに比べて、純粋な恋愛の帰結として描かれている。

とはいえこの時代の小説で語られる若者は、「坊っちゃん」のような無鉄砲な若者はいるにはいたけれど、依然として「どう生きるか」ということを悩み続けていたように思う。逆に言えば、そういった小説で取り上げられている若者は、それを悩むことができるという性質を持っている点で、戦前のつかの間の平和を享受していた、といえるのかもしれない。実際に、豊饒の海は第二巻、第三巻と進むにつれて、きな臭い戦争に多かれ少なかれ巻き込まれていくことになる。

戦中

戦中の若者は、つまり兵隊であった。古市によれば彼ら若者は老人から期待を受けていたが、それは彼らを単純に兵力、労働力として換算していたからにほかならない。彼らは不幸であった。その不幸は自らの生きる道の選択肢というものがなかったということにある。そう考えると、生きる道を選択できるようになったというのが、戦後以降の人々の生き方を規定することになる。

猪瀬直樹の「昭和16年夏の敗戦」においては(これは小説というよりノンフィクションかもしれないが)、開戦直前に総力戦研究所において日本の若き才英たちが日米開戦のシミュレーションを行い、そして敗北するという結論を導きながら、その意見が黙殺され、日本が開戦に向かって突き進んでいく様子が克明に描き出されている。上層部の決定に振り回されるしかない若者はいつの時代も無力なのだ。

山崎豊子の戦争三部作とよばれる作品群、「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」では、様々な立場から戦争に翻弄される青年が描かれている。

不毛地帯」の主人公である壹岐は、戦時中は大本営参謀本部にいたものの、終戦直後にわたった満州ソ連軍に拘束され、シベリア抑留の憂き目に遭っている。「二つの祖国」は、日系人の兄弟がアメリカと日本のそれぞれで戦争に巻き込まれていく葛藤が描かれている。また「大地の子」では、中国残留孤児の半生が描かれている。いずれの主人公も、戦争を契機に大きく人生が変えられることになる。

どの作品の主人公も、戦時中はその運命に翻弄され、戦争が終わってもその運命から逃れられずに生きなければならないことが示唆されている。こうした物語に留まらず、平成初期にテレビで放送されていた二時間ドラマでも、こうした戦時中の出来事や過ちに、老後になっても囚われる人々の姿が描かれていたように思う。こうしたドラマをみながら、我々が戦後の経済成長と引き替えに忘れてしまっていたものに対する内省があったのではないかと思われる。元号が変わって令和となり、戦争を知る世代が減るにつれて、こうしたモチーフはドラマでも徐々に扱われなくなったが、それによりさらに戦争が我々から遠いものになっているのではなるまいか。

戦後

戦後、日本は進駐軍による日本軍や財閥の解体、農地解放を経て、日本国憲法に基づく民主主義国家として生まれ変わった。その後、朝鮮戦争の特需から経済が回復し、防共防波堤の最前線としての役割が期待されるようになると、軍国主義の看板は資本主義社会における利潤追求にすげ替えられ、後にエコノミックアニマルと揶揄されるような、高度経済成長の時代に邁進していくのである。

戦後の青春小説については、こちらの記事で触れている。

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まとめ

強引な解釈、不適切な読み違え、事実と異なる記述については大目に見ていただくとして、若者意識の変遷というものをある程度、各時代の小説の中から読み取ることが可能となっているように感じる。この話題をさらに発展的に捉えていくと、何か見えてくるものがあるのではないだろうか、とまあこのように愚考する次第である。