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宇野常寛「遅いインターネット」から想像する

ここでは、宇野常寛の「遅いインターネット」を読んで、政治の司法化について議論してみたい。

第1章においては期間限定でこちらで公開されている。

slowinternet.jp

宇野常寛氏については当ブログにおいても着目しており、「ゼロ年代の想像力」については以下の記事でも触れている。

sharply.hatenablog.com

提言について

本書では第1章や第3章の末尾において、これからの政治に対して3つの提言をしている。これを簡単に要約すると以下のようになるだろう。

  1. 民主主義に制限を加え、立憲主義にパワーバランスを傾けるべきである
  2. 普通選挙だけに決定権を集中させず、ボトムアップの意思決定のシステムによってリスクを分散せよ
  3. 自己幻想から「自立」せよ

2つ目の提案については、台湾などの civictech の例を援用して、政治意識の高い「市民」でも、扇動に踊らされる「大衆」でもなく、「人間」として政治に参加できるような、ボトムアップの仕組みを整えるべきだと提言している。また3つ目の提案である、自己幻想からの自立については、吉本隆明の議論を現代風にアレンジしながら説明しており、自己幻想は具体的には、SNSによって肥大化した自己意識、自己像のことを指しており、そうした自己意識とうまく付き合っていくための処方箋として、「遅いインターネット」という概念を提唱している。詳しい議論は本書に譲る。

ところで、1つ目の提案、すなわち「民主主義を半分あきらめる」ことについては、本書についてはそれほど触れられていない。立憲主義の側面を強める、これはすなわち司法の持つ権力を強めるバランス調整であると述べられており、抽象的違憲審査制の導入が例示されている。著者がこの本ではないどこか別のところで既により詳細に議論している可能性はあるが、ここでは本書で述べられている議論の上で、立憲主義を強めた際に何が起こるのか、について少し考えてみたいと思う。

政治の司法化

本書では立憲主義の側面を強める方法としては司法権の強化を例示している。実際に日本の司法権が弱いということは、 Björn Dressel (2012) The Judicialization of Politics in Asia によっても示されている。その中で日本は、「司法の独立性が高い」というのと、「司法による政治の介入度が低い」という2つの特徴を持つというように記述されている。アジアにおいては、「司法の独立性が高い」上に、「司法による政治の介入度が高い」国として韓国やインドネシア、フィリピンが、また「司法の独立性が低い」かつ「司法による政治の介入度が高い」国として、タイ等が挙げられている。

政治の司法化というワードは、政治問題の解決のために司法に頼る傾向のことを指す用語として提案されたものであるが、タイは政治の司法化というより、司法の政治化、すなわち司法と政治が一体化し、司法が政治に積極的に関わるというという状況にまで進んでいるとしている。これが、立憲主義を強めた時に起こりうる一つの現象であると解釈することができるだろう。ここでは具体的にそれが指し示す状況が何であるかについてみてみよう。

タイの政治制度

日本とタイの政治制度は、似ているところもあれば違うところもある。似ているところとしては、どちらも1990年代に選挙制度改革を行い、小選挙区比例代表を組み合わせた選挙制度を採用した。相違点としては、日本では非自民連立政権としての細川政権・羽田政権、また2009年の民主党政権のほかは、常に自民党が政権与党であり続けた。これに対してタイでは地方部からの支持を集めたタクシン派と反タクシン派の間で何度か政権が揺れ動くなど、政権交代が何度か発生していることがわかる。*1

タイにおいては小選挙区制が導入されたときに、選挙で第一党となったのは地方部を基盤としたタクシン派であり、それは従来のエスタブリッシュメントとは相容れない政党であった。その後、タイではエスタブリッシュメントによる反動が発生し、例えばタクシン派の勝利で終わった2006年の総選挙は、憲法裁判所が違憲の判決を下して政治が混乱し、その後軍部クーデターによってそもそも民主主義自体が損なわれてしまう、という事態になってしまった。その後も、タクシン派が政権を握るたびに、その反動としてクーデターが発生するという構造は変わっていない。クーデターに至る前に、司法が何らかの形で選挙に対して異議を唱え(例えば選挙が違憲であったり、政党の解党命令を出したりするなど)、それによって政治が混乱し、それがクーデターの引き金となっている。このことをさして、裁判所が「政治の司法化」をしている、すなわち司法権が政治を担うような状況になっていると言われることもある。

タイの例では、民主主義に対して、さまざまな形で司法が圧力をかけることとなり、その司法が実質的にはエスタブリッシュメントに支持されていたという状況から、立憲主義エスタブリッシュメントを利する方向に働いたと言えるだろう。

アメリカの政治制度

アメリカ合衆国の場合を見てみると、民主主義の側面は四年毎の大統領選挙、および上院・下院の選挙によって担保されている。それに対して、9人の最高裁判事は終身制であり、空席ができた際の大統領が指名することができるという制度になっている。最高裁判事の構成では、リベラル派と保守派の均衡が保たれるのが今までの平時であった。しかし、2022年現在において、保守派が6人に対してリベラル派が3人と、偏りが生じている。この構造は、再び最高裁判事に空席が生じるまで変わらない。そのため、当分の間は保守派に有利な判決が下される傾向が続くというように考えらえる。

このことから、司法権を担っている最高裁における判事の構成に、実際に行われる政治的決断が強く依存してしまうということが示唆される。

www3.nhk.or.jp

まとめ

宇野の指摘通り、民主主義の負の側面を克服するために、立憲主義を強める、言い換えると司法権を強化するという施策自体は、日本以外の国々でもみられる現象ではある。しかしながら政治の司法化、さらには司法の政治化と呼ばれる現象が発生している国も見られ、その運用には注意が必要となるだろう。

参考文献

Björn Dressel "The Judicialization of Politics in Asia"

外山文子「タイ民主化憲法改革: 立憲主義は民主主義を救ったか」

重冨真一「タイの政治混乱――その歴史的位置――」

https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2010/RCT201002_001.html

重冨真一「続くタイの政治混乱――あぶり出された真の対立軸」

https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Analysis/2020/ISQ202010_001.html

*1:赤シャツ派、黄シャツ派に別れたデモのことを覚えている方も少なくないだろう